拝啓
姉さん、覚えてますか。
あの人のことを…。
ぼくらが子供の頃にどこかへ行ってしまった、あの人のことを。
30を過ぎたぼくは、
記憶の隅に追いやられたあの人の姿を探して、
旅に出ました。
あちこちで消息を尋ねました。
「こないだまで長野にいたべ。」
「静岡で見たけんどもなぁ。」
しかしどこへ行っても、
あの人は旅立った後でした。
渋谷のハチ公前で無残にぶった切られた姿を発見した時は、
もうダメかと思ったものです。
しかしぼくの悲痛な願いが天に届いたのか、
あの人は熊本にいました。
人目を避けるように小さな駅にひっそりと佇んでいました。
姉さん、これです!この色です!
熊本電鉄100周年の赤いマークはついていますが、
くすんだ緑色、これがぼくらの思い出の中のあの人です。
やっぱりハチ公前で見たあれは幻だったのでしょう。
あれはきれいすぎます。
うれしくてカメラを向けようとするぼくに、
「よせよ。もう昔の俺とは違うんだから。」
あの人は寂しそうに言いました。
「ちっとも変わってないじゃありませんか。」
そう聞き返すぼくに、あの人は見せました。
むりやり運転台!
そうです。
1両で運行するために連結部を改造し運転台をつけたので、
反対側がとてもかわいそうな顔になっていたのです。
取り乱すぼくにあの人はこう言いました。
「こんな姿になっちまったが、俺はいま、幸せだぜ。
よく見てみなよ。思い出がたくさんつまってるから。」
姉さん、あの人言うことは本当でした。
ドアの窓の位置が高くて子供には外が見えない。
だからこの車輌が来るとがっかりだった。
時代に取り残されたような空気を体中にまとって、
あの人は上熊本~北熊本間をのんびりと走っていました。
「東京から遠く離れて寂しくありませんか?」
「寂しくないぜ。江戸っ子がもうひとりいるからな。」
そう言って、北熊本駅に滑り込んだあの人の向こうに、
見覚えのある顔がさっそうとやって来ました。
姉さん、都営三田線の彼ですよ!
「お久しぶりです!」
「なんでぇ、東京のもんかい。いやぁ、こっちは楽しいぜ。あばよ。」
彼が輝いている理由が後で分かりました。
ああ、あの人はこんなに素敵な場所で余生を送っていてくれた。
ぼくはとても幸せな気持ちになりました。
やはりこれも熊本という器の大きな土地柄のおかげなのでしょう。
あちこちにそれをうかがわせる光景がありました。
九州一うまいきつねうどん。
ものがものだけに期待が膨らみます。
優しさだけでなく厳しさも見せます。
“俺は弟とは違うんだ!”
姉さん、あの人は元気でした。
もう心配することはありませんね。
長年ぼくらの心にわだかまっていたあの人の記憶も、
これで明日への励みに変えられそうです。
では、お体ご自愛ください。
敬具
駒次より
追伸:駒次に姉はいません。